
想像してみる。
たとえば、登山に行くとする。
そのとき、私はカメラも、メモ帳も持っていく。
登りはじめの頃や、まだ体力に余裕があるうちは、立ち止まっては、写真を撮るだろう。見えたもの、感じたことを、走り書きでメモにも残す。
登っていく途中で出会う景色や感情は、なるべく残しておきたい。
けれど、やっとの思いで頂上へたどり着いたとき、私が最初にするのは、ただ、深呼吸することかもしれない。見わたす限りの景色に、言葉を探すよりも、しばらくは黙って眺めていたい。
少し休んで、やがてまた、カメラを手に取る。
遠くを撮ったり、近くなった空を仰いだり。
でも、そんな自分に「あれ?」と気づく。頂上そのものを、写真に撮っていない。
自分の足元の石や、山のてっぺんを撮影しようとはしていない。それよりも、今ここにいながら、まだ先にある空のほうへと、視線だけが、さらに遠くへ進もうとしている。

これって、日々の暮らしにも似ているかもしれない。
目標を目指している途中には、感情の揺れや小さな達成がいくつもある。そういうときほど、人は記録をとりたくなる。あとから思い出として見返せるように、言葉にしたり、写真に残したりする。
でも、不思議と、たどり着いたその瞬間の記録は少ない。夢中で味わっているからかもしれないし、どこかで、道の途中の方がより強く心に残ると知っているのかも。
目標を成し遂げた喜びは、もちろんある。
何かをやりきったという満ち足りた気持ちも、手元にある。
けれど、時間が経つほどに思い出すのは、その達成を支えていた日々の、重ねた努力や心の動きだったりするのかも。
そうやって、残っていくものと、通り過ぎていくものがある。
それらは、すぐには言葉にならないけれど、私の風景の一部になって流れているのだと思う。
