忘れていた感覚が、息をする。

Still

つくる時間には、音がない。効率では見えないことと、正解のないものに向き合う時間

    私はこれまで、伝統やアート、ヨガ、セラピー、ものづくりなど、創作や表現にたずさわる方々と出会う機会が多くあった。そのたびに、言葉にならない不思議な刺激を受けているのを感じる。

    「つくること」について私が語るなんて、おこがましいかもしれない。けれど、日々のなかで感じたことを、自分なりの言葉で書いてみたいと思った。

    言葉を綴ったり、写真を撮ったり、絵を描いたり。

    自分のために手を動かしているとき、外からは見えにくいけれど、その時間の中にはゆったりした豊かさが流れているように思う。いま感じていることを、そのままの温度で残しておきたい。そんな想いが、体の中を静かに巡っている。

    うまく言葉にできなくても、形にできなくても、「いま、ここの自分」を一度とめておくような感覚。あとで見返したとき、そこにあるのは、迷ったり、手探りだったりしたままの自分自身。

    そのときの空気ごとよみがえってくるような、旅のアルバムみたいだなと思う。

    いまの時代、ほとんどのことは検索すれば出てくる。

    知らない場所に行っても、すぐに地図が開けるし、何かを選ぶ前には誰かのレビューも読める。最近では、AIが小説を書く時代になった。

    どれもそれぞれに助けられたり、驚かされたり、すごいなぁと思う。

    けれど、自分の中にある「まだ形にならないもの」については、どこにも答えがないままだ。
    「私は、どうしたいんだろう」
    「この気持ちは、どこから来ているんだろう」
    そんなふうに、まだ確信のないものと向き合う時間が、創作のそばにはいつも静かに流れているように思う。

    何かをつくり続けている人って、「いま感じていること」に正直であろうとする人なのかもしれない。

    たとえば、うまくいかなかった日も、その履歴をなんとなく残しておきたくなる。下書きにも満たない言葉やスケッチを、なぜか捨てられずにいる。

    そういうものたちは、ぐしゃぐしゃの文字だったり、意味のわからない線だったり、唐突に置かれた文章だったとしても、書いたとき、描いたときの空気がよみがえってくる。

    すぐに役立つものではないけれど、その積み重ねの中でしか育たないものがある。
    そんなふうに、誰にも見えないまま静かに重なっていく感覚もまた、創作という営みの一部なのだと思う。

    誰かの言葉や日記に心がふとゆるんだり、写真や作品にうっとりと見入ってしまうときがある。
    「つくること」で、時間をかけて向き合っているうちに生まれたものは、やがて、誰かに静かな波を送ることができる。

    自分の中の静かなところで、自分だけのペースを守りながら、自分を信じて過ごしている人。私はそんな人たちとつながっていたいと思う。

    「表現すること」は、私にとって避難場所のようなものだ。
    うまく伝えられなかったり、言葉に詰まってしまったり、自信がなくなることもあるけれど、そんなときこそ、自分の世界にもぐってみる。

    ノートでも、カメラでも、アトリエでも。
    自分の感覚を掘って、余白をつくってあげる。それだけで、自分の中に休憩所が現れるのを感じる。

    つくることの、はじめの一歩を恐れないこと。
    その一歩の完璧を求めすぎないこと。
    それが、私にとっての「表現」の軸であり、支えでもあるようだ。

    大好きな村上春樹氏が、こんなふうに言っている。

    完璧な文章などといったものは存在しない。
    完璧な絶望が存在しないようにね。

    『風の歌を聴け』村上春樹

    そしてこちら、少しだけ目を細めて、どうぞ。

    完璧な創作などといったものは存在しない。
    完璧な自分が存在しないようにね。

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