
言語化について書くと、いつも似たところに戻ってくる気がする。ただ、その繰り返しの中で少しずつ見えてくるものがあって、今回もその続きとして、思いつくまま書いている。
日常でも仕事でも、はっきりした言葉が求められることが多い。数字や根拠がそろっていると信頼されるし、自分でも無意識で寄ってしまう。
でも、本当のところ私たちは、もっと曖昧な世界で生きているんじゃないかなと思う。
理由はわからないのに好きだったり、なんとなく気分が良くなったり、光や風で心がほぐれたり。そういう、はっきりしないのに確かに存在するものを、もっともっと大事にしてもいいのかもしれない。
私は何かを選ぶとき、直感や感性もひとつの目安にしている。もちろん状況や理由も必要だけれど、どちらか一方に偏ると落ち着かなくて、心がそわそわする。自分の納得は、感覚とロジックの間を行ったり来たりしながら、少しずつ形になっていくように感じる。
とはいえ、自分の感覚をそのまま信じるのは簡単じゃない。「感覚で選択して本当にいいのかな」と立ち止まったり、伝わらないかもしれないという不安がよぎったりする。説明できた方が確実に届くかも、という気持ちもよくある。
それでも私は、感じたことを言葉にしてみたくなる。五感みたいに掴みにくいものを言語化しようとすると、どうしても言葉にならない部分が残る。でも、その残った部分こそが人の魅力だったり、創作の源になったりする気がしている。
すべてを説明しなくてもいいし、むしろ、その方が世界は豊かだったりする。ときどき、「ここは言葉にしなくていいな」と思える場面もある。言語化しないまま静かに残しておく余白も、同じくらい大切だ。
その感覚を、これからも丁寧に持っていたい。
仕事でも暮らしでも、答えのありそうな方向へ引っ張られがちだけれど、本当は心が先に動いて、あとから理由がついてくることの方が多い。このごろは、説明は必要になったら後で追いつけばいい、なんて思っていたりする。
最初は、「なんか好き」「なんかいい」という感覚から始まって、やがてそこに体験が重なっていくうちに、背景や物語がだんだん見えてくる。その順序のほうが、心に素直に響く。
「うまく言えないけれど好き」。
ここにある温度は、ほかの何にも置き換えられない。
私はその曖昧さを、日々の中で拾っていける人でありたい。
