日々、目にしているもの。
今日の雲の形や、駅で耳に入ってきた誰かの声。
読みかけの本の一行や、どこからか流れてきた音楽。
そういったものが、すぐに自分の感覚に結びつくわけではなく、いったん、どこかにしまわれて、じわじわと沈んでいきながら、少しずつ混ざっていく。
あのときは気づかなかった感触が、今日の自分には、少し違う温度で戻ってくることもある。時間がたってから、まったく別の形で思い出されるのだ。
「いいな」を形にしたい気持ちや、「つくりたい」という感情は、衝動熱というよりも、めぐりに近いものだと思っている。強く湧き起こるというよりは、いつのまにかそこにあって、気がつけば自分の中を通り抜けているような。
何かを「つくる」は、自分の中を通ってきたものが、にじみ出てしまう。気づいたときには、言葉や音や色になって、目の前にあらわれている。
だから、文章にも、写真にも、絵にも、音楽にも、どうしたって「自分」がにじんでしまう。取り繕おうとしても、隠そうとしても、浮かび上がってしまう。
でもそれは、恥ずかしいことでも未熟なことでもなくて、むしろ、創作の一番おもしろいところかもしれないな、と思う。何かができあがるまでの間にも、自分の中では小さな変化が続いていて、知らないうちに、まったく別の景色を通っているのかもしれない。
感じたりつくったりすることは、まっすぐな道のりではなくて、季節のようにめぐりながら、静かに続いていくものなのだと思う。

だから、今日なにも心の網にかからなかったとしても、それは「整えている時間」なのだ。
あるときは「揺れ」としてしかとらえられなかったものが、今日は「流れ」として感じられることもある。少しずつ、見えるものが変わっていく。
気づくと、めぐりのなかに自分がいる。
止まっていたとしても、ちゃんと導かれて、流れているのだと思う。
