杉本博司さんを知ったきっかけは、作品ではなく、『空間感』という一冊の本だった。
言葉から入った、というのが私の始まりだ。

それから何年ものあいだ、雑誌や本をたどるようにして、彼の言葉を追いかけてきた。過去の対談や映像を見つけては、繰り返し見返す。そんな時間を重ねてきたのに、実物の作品を見たことは一度もなかった。
言葉だけで、もう十分に満たされている気が、どこかでしていたのだと思う。

だから正直に言うと、今回の展示も、楽しみにはしていたけれど、新しい驚きまではないだろうと、心のどこかで思っていた。「海景」がなぜこれほど有名で、代表作と呼ばれているのか。横に一本、水平線があるだけの写真の、どこがそんなに特別なのか。
言葉から入った私には、その理由が長いあいだわからないままだった。
けれど、その作品の前に立った瞬間、足が止まった。

思っていたよりも、ずっと大きな写真だった。
一本の水平線が、ちょうど私の目の高さに横たわり、海と空が、真ん中でやわらかく分かれている。それだけなのに目を離せなくて、吸い込まれるように見ていた。どれだけ深く見ようとしても、そこにあるのは、やはり一枚の水平線だけ。
遠くの遠くまで削ぎ落として、削ぎ落として、最後に水平線だけが残る。
そういう風景だった。

1980年 カリブ海にて
夢にみたたゆたううみのしずけさや
はじめてのうみはじまりの記憶
杉本さんの海景では、どこの海なのか、撮影地の名前はほとんど意味を持たない(作品のそばには、ちゃんと撮影地が書き添えられているのだけれど)。
その土地ならではの景色をすべて省いて、残るのは海と空、二つの形だけ。同じ構図で世界中の海が静かに撮られていく様子は、心の定点観測のようにも思えた。
海も空も、文明が生まれるよりずっと前から、そこにあった。
誰の記憶よりも古い時間が、水平線という一本の線になって、目の前にある。その線をはさんで、はるか昔の人と自分とが、同じ景色を見ている。
そう感じられたとき、胸の奥が小さくギュンと鳴るような、不思議なときめきがあった。
私はきっと、「時間」を見ていたのだと思う。

そういえば、と自分のことを思い返した。
私も、水辺や、古い建物や古道具、空に、よくカメラを向ける。
文章を書くときも、ある場所に流れていた空気を、そのまま言葉に移そうとする。けれど、移そうとするほど、一番大事な何かが指のあいだから逃げていく。もっと入れたくなる、もっと説明したくなる。そうして気づけば、余計なものばかりを抱え込んでいる。
なぜ自分がそうした場所にばかり心を向けるのか。これまでうまく言葉にできずにいたけれど、海景の前に立って、その理由が少しだけ見えた気がした。
私が本当に残したいのは、景色そのものではないのかもしれない。
誰かがかつて見たであろうものを、もう一度、自分の目で見てみたい。同じ場所に立ち、同じ光を浴びて、その人が見たもの、感じたものを、自分の体でもう一度たどりたい。
そういう願いが、いつもシャッターを切らせ、言葉を選ばせていたのだと思う。
彼の言葉を追ううちに、何度も出会った言葉がある。
「追体験」。
頭で知るのではなく、同じ場所に立ち、同じことをなぞって、体でもう一度たどること。
私はこの言葉に、長い時間をかけて、静かに突き動かされてきたのだった。
海景の前で動けなくなったのは、自分の中にずっとあったその気持ちを、完成した形で見せてもらえたからかもしれない。

思えば、はるか昔から、私たちは夜空を見上げて、自分を確かめてきた。
星はひとつひとつの点で、その点を結ぶと星座になる。そして星座には、祈りと神話が宿っている。
夜空の星も、私たちの日々のひとつひとつも、もとはささやかな小さな光にすぎない。
その小さな点を誰かが見つめ、結び、言葉にしたとき、それははじめてひとつの物語になる。
私たちは知らないうちに、その神話の続きを、いまも生きているのかもしれない。

「絶滅」と名づけられた展示のなかで、海景だけは、消えないもののように感じられた。
多くのものが移り変わり、失われていく。それでも、空や水平線のように、私たちが繰り返し見上げてきたものは、太古からほとんど姿を変えていない。はるか昔のものに触れているはずなのに、なぜか、いまここにいる自分のほうが、くっきりと濃くなっていく。
そんな感覚があった。
作品の横には、杉本さんの短い言葉が添えられていた。その一文を読みながら、私は海景を、できるだけ体の中に取り込もうとしていた。目だけではなく、体すべてで受け取るように。
言葉から入ったはずの私が、言葉ではないところで、あの水平線とつながっていける気がした。

ここで感じたものは、言葉の形では表せないものだったのかもしれない。実際にその前に立って、足が止まって、ようやく触れられたのだと思う。
読むことと、立つこと。
そのあいだには、思っていたよりずっと深い隔たりがあった。
何年も活字越しに追いかけてきた人の作品の前で、私はようやく自分の体で、読んできた言葉の意味に近づけた気がしている。
展示を出て外を歩きながら、私はまだ、あの一本の線のことを考えていた。
水平線は、いまもどこかで、同じ姿のまま続いている。


