
ここにあるもの
本来、何かを見たり感じたりするとき、人はもう少し時間をかけていたはずだった。
まぶしいとか、重いとか、なにこれ嬉しいとか。
驚きにも似た感じが、先にあった。
でも今は、何かを見た瞬間には、すでに前情報が頭にあったりする。
「きれいだ」と思う前に、「こうだから、きれいなんだ」と、知識がある。
感覚よりもはやく情報がきてる、というのが当たり前になっている。
このままだと、いつか「何を見ても動かない」が普通になるかもしれない。
感動の基準が少しずつ上がり、もっと強いものでないと、反応できなくなってしまう。
暮らしの中に、何も見えなくなる日が来てしまうかも。
でも、こうして変化を感じているということは、まだ救われているのかもしれない。
「このままでいいのか」
「じゃあ、私はどう楽しもうか」
という、声にならない問い。
それを流すか、ひとつの手がかりにするか。
とても大切な局面にいる気がする。
とはいえ、感覚を大切にすることが「非効率」に見えてしまう、この空気そのものが壁になっていることもある。
立ち止まることへの罪悪感。
休むことへの申し訳なさ。
一人で自分の感覚を守ろうとすると、すぐに流されてしまう。
けれど、似たような感じ方の人がいると知るだけで、自分の感覚が、根拠を持ちはじめる。

Mezzonaryは、写真と文章で編まれた、感覚のストックです。
答えのようなはっきりしたものがない代わりに、忘れていた感覚が息をするための「間」を大切にします。
読むというより、立ち寄る。
情報を得るというより、感覚を取り戻す。
そのための、静かな中継地点を目指しています。
忙しい日常の中でも、世界のどこかには、ゆっくり流れる雲に気づく人がいる。
お箸を持つとき、重さを確かめる人がいる。
そういう人たちは、特別なことをしているのではなく、ただ、感覚を手放さないでいるのだと思います。
感覚は、使わないと鈍くなってしまう。
特別な日でなくても、今日、何かをただ見てみることから、はじめられる。
小さなことに、気づける自分でいたい。
Mezzonaryは、そのための場所です。
